2020年ドラフト2位で日本ハムに入団した五十幡亮汰(いそばた・りょうた)選手のお母さんは、五十幡選手が小学生の頃に亡くなったそうです。
また中学生時代は陸上短距離走の選手としても活躍し、才能もあった五十幡亮汰選手が、陸上ではなく野球選手を目指したのには亡くなったお母さんとの約束が関係していました。
今回は五十幡亮汰選手のお母さんの病気や野球を目指すきっかけになった手紙についてお伝えします。
この記事を読むとわかること
◇五十幡亮汰の母親について
◇五十幡亮汰の母親の病気について
◇五十幡亮汰が野球選手を目指したきっかけと母からの手紙について
◇五十幡亮汰のプロフィール
Contents
五十幡亮汰の母の病気は腎臓ガン!
五十幡亮汰選手のお母さんはどんな方だったのでしょうか?
また病気についても調べてみました。
母親はどんな人?
五十幡亮汰選手のお母さんの名前は恵子さん。

五十幡亮汰選手は小学校1年生から少年野球を始め、試合の時も五十幡亮汰選手がヒットを打つたび、全身で喜び大きな声援を送っていたそうです。
母・恵子さんは息子をいつも応援し、明るく優しい母親だったそうです。
病名は腎臓癌だった!
五十幡亮汰選手の母・恵子さんは、五十幡選手が小学校に上がる少し前に病気が見つかりました。
それは末期の腎臓癌で、気づいた時には癌が広がっており、完治する見込みはなかったといいます。
ですが子供達には”笑っていてほしい”という理由から病名は伏せていたようです。
子供達には病気のことは隠しながらの闘病生活をし、入退院を繰り返しますが癌の症状は悪化するばかり・・・。
それでも、弱音を吐くこともなく五十幡亮汰選手の野球の試合には必ず応援に出向いていたそうです。
小学3年生の時に五十幡亮汰の隣で母が亡くなった
2007年6月10日、五十幡亮汰選手が小学3年生の時にお母さんは亡くなってしまったそうです。
五十幡亮汰選手には姉がおり、その日は姉のエレクトーンの発表会でした。
病状が悪かった母と五十幡亮汰選手は自宅で待っていて、ベッドに横たわりながら電話越しに姉のエレクトーンを聴いていたそうです。
ベッドで横たわる母親に甘えるように寄り添い、いつの間にか眠ってしまったといいます。
そして母はその隣で静かに息を引き取ったようです。
五十幡亮汰が野球選手になった理由は母の手紙!
8歳で母親が亡くなってしまい、なかなか受け止められなかった五十幡亮汰選手。
そんな五十幡亮汰さんの母親は生前息子に手紙を残していました。
手紙の内容は
お母さんは野球をしている亮汰が大好きです。
頑張ってプロ野球選手になってください。
という内容でした。
生前、五十幡亮汰選手は母・恵子さんに”将来は野球選手になりたい”と伝えていたそうです。
恵子さんはその夢にものすごく喜び、応援していたそうです。
そして野球に活かすため、中学時代は陸上部へ入部しました。
五十幡亮汰選手は陸上短距離走の選手としても活躍し、中学3年の時にはサニブラウン選手を抑えて全国大会での優勝も経験しました。
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陸上の才能もあった五十幡亮汰選手ですが、母親と約束したプロ野球選手になるという夢に迷いはなかったといいます。
でも高校3年生の時、伸び悩み、自信を失い、野球に対する気持ちが薄くなった時期もあったそうです。
そんな時に、お母さんが遺してくれた最後の手紙をお父さんが渡してくれ、手紙を読んだ五十幡亮汰選手は、お母さんとの約束を思い出し、改めて頑張ろうと思ったそうです。
こうして沢山の努力を重ねた結果、五十幡亮汰選手は2020年にドラフト2位で、日本ハムへの入団が決定し、母との約束のプロ野球選手という夢を叶えました。
亡き母との約束を果たした五十幡亮汰選手は、とても頑張り屋で芯が強い素晴らしい方なんだと思います!
五十幡亮汰のプロフィール
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- 【名前】五十幡 亮汰(いそばた りょうた)
- 【生年月日】1998年11月27日
- 【年齢】22歳 ※2021年5月時点
- 【出身】埼玉県行田市
- 【身長】172㎝
- 【体重】67㎏
- 【投打】右投左打
- 【ポジション】外野手
- 【経歴】行田東フェニックス(行田市立東小学校)→東京神宮シニア(行田市立長野中学校)→佐野日大高校→中央大学
まとめ
今回は五十幡亮汰選手についてお伝えしました。
五十幡亮汰選手のお母さんは、五十幡亮汰選手が小学3年生の時に腎臓癌で亡くなられました。
まだまだ甘えたい年頃だったと思います。
そして亡くなったお母さんとの約束を果たした五十幡亮汰選手の男気にすごく感動・尊敬しました。
天国のお母さんも大変喜んでいることでしょう!
五十幡亮汰選手のこれからの活躍を応援したいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。